李 薫(イ・フン)
はじめに
今日、取り扱ってみようとする問題は前近代における韓国の歴史的伝統(特質)を対日交渉史的の側面から明らかにしてみようとする問題である。言い換えれば、前近代の日朝関係における伝統(特質)として理解されてきた部分を新しい視点から再検討してみようということである。
韓国や日本の歴史教科書、または概説書の中で壬辰倭乱(文禄の役)以後(日本では江戸時代)の韓日関係を取り扱った部分をみれば、程度の差異こそあれ共通点を見出すことが出来る。一つは朝鮮で日本へ外交使行を派遣する“善隣友好”一辺倒の通信使外交が交流の全てであるがごとく説明されており、このような日朝間の交渉は対馬によって成立したということである。“善隣友好”が日朝交流の特徴を説明する重要な用語には間違いはないが、交流の主体があくまでも中央政府に限定されていて、友好の中で対馬の役割もあまりにも単純化されている。
これをみると“朝鮮朝廷-対馬(藩)-江戸幕府”という中央政府中心の外交を抜け出したケースは最初から除外されており、朝鮮と日本の辺境地域、それも民間レベルで実在していた日常的な接触や摩擦は言及の対象になることができないでいるのである。
教科書という特性を考慮に入れれば、理解することはできるが、このような枠だけでは、なぜこの時代に摩擦や葛藤が頻繁に起こったにも関わらず、全般的に“友好”が
維持されたのかを理解することはできない。それだけでなく、さらには前近代から近代に転回していく時期、朝鮮と日本の関係がなぜ突然“友好”から“侵奪-被侵奪"、対等から不平等関係に変化していくかは理解することが難しいであろう。したがって、ここでは前近代における日朝間の間接通交体制の性格とこの中における対馬(藩)の役割を再検討する必要がある。
1. 日朝 間接通交と東莱府・対馬
まず日朝間の間接通交とはどのようなものであるかということから考えてみることにする。
壬辰倭乱以前の日朝間の懸案は倭冦問題であった。朝鮮は倭冦の挑発を根絶するために日本の中央政権(室町幕府)をはじめとする対馬、山陰、五島、薩摩など多くの地域の各種通交者たちと直接交渉を行った。これらは1426年以後、東海岸と南海岸の3浦(塩浦・薺浦・富山浦)を通って朝鮮に戻って来た後に上京することが原則であった。倭乱以前にはこのように通交の相手も多様であり、また、これらとの交流する場所も沿岸浦口から首都に至る上京路まで広範囲にわたり、通交手続も煩雑であり、費用も多くかかるだけでなく、情報の管理も困難であった。これに15世紀の中半(1443年,
癸亥約条)以後には日本との接触窓口を次第に対馬に一元化していくことになり、浦口も薺浦ひとつに制限した。このように対馬を通して日本と間接的に通交する体制を取ったことによって、手続が簡素化され、通交にかかる費用も節減する効果をもたらした。しかし、一方では、日本に対する情報が対馬を通して操作されるようになる16世紀には、日本に対する認識に誤解も生じ壬辰倭乱を招来することにもなった。
また、朝鮮は倭乱以後にも1607年日朝関係の回復を契機に、依然と同様に対馬を通して江戸幕府と交流する間接通交方式を取った。ただし、このとき対馬の人たちが入ることができる浦口は釜山浦のみに制限した。
このようになると釜山浦には通信使招聘から対馬と朝鮮間の貿易など各種の懸案事項をもって釜山に訪問する対馬島人のために居留施設及び通商をすることとのできる空間として倭館が設置された。もっとも、壬辰倭乱の時には、対馬の人たちの上京路は、すなわち、侵略路であったため、壬辰倭乱以後には対馬の人たちを上京できなくすることで、倭館に居住する対馬の人たちが釜山を抜けるのに朝鮮の内地をまわることはできないようにした。したがって、東莱府が日本と接触する唯一の窓口となり、対馬の使者が持ってくる各種の懸案事項は一旦、東莱府(東莱府使)が接受して、中央に‘転達’することになった。
つまり、壬辰倭乱以後には、朝日間の公式的な通交の窓口は‘東莱府⇔対馬’に一元化されることによって、日本から朝鮮に入る道は釜山浦から対馬(鰐浦)を行き来する航路以外は封鎖されることになった。そして、対馬の人たちの居留空間が釜山浦の倭館、一箇所に限定されることにことで、朝鮮人と日本人が交流ないし、接触することができる空間も基本的には東莱府及び、東莱府周辺に制限されることになった。日本に対する情報もまた、対馬が日本の対朝鮮通交を独占することによって、朝鮮や日本は対馬を通して操作された情報のみに接することになったことを意味するのである。
日朝の間接通交のなかでのこのような交流形態は1868年に日本で起こった明治維新という政治的変動によって直接通交に変更されるときまで持続された。
2. 政府次元の外交から日常的な接触まで ここでは唯一の通交の場であった釜山浦の倭館を中心に日朝間に日々どのよなことが起こっていたのかを検討していくことにする。
倭館は壬辰倭乱の直後(1601年)に絶影島(現在の釜山影島)に設置され、1607年に釜山の豆毛浦(現在の釜山古館)に移された。しかし、対馬が水深が浅く風が強いために船が停泊しずらいという理由から移館を要請したことによって、1678年には草梁(現在の竜頭山公園)に移された。以後1871年の日本の明治政府が外務省の公館として接収するまで、約200年間にわたり存続した。
草梁倭館は約10万坪規模で、ここには館守をはじめとして倭館に派遣された対馬の役人、各種懸案事項を持ってくる対馬の使者,
商人, そして時には、この家族たちで年中通常400~500名前後の対馬の人たちが居留していた。また何年間も長期滞留する対馬の役人から、何個月程度の短期滞留者たちまで含めて倭館の居留民はすべて男性であった。
倭館に派遣された対馬の使者たちの重要な外交任務は、江戸幕府を代理し朝鮮の通信使を招聘する任務と対馬に朝鮮の訳官(通訳官)を招聘する任務であった。しかし、幕府の指示を受け通信使を招聘することは前近代(近世)260余年の間に12回しかなかった。また、朝鮮と対馬の間の懸案の解決のために朝鮮の訳官一行を対馬まで招聘したことも、同じ期間に50余回程度であった。この二つを合わせたとしても外交的な事案は、ほとんど4年に1回程度づつしかないような任務であった。
これ以外には朝鮮は日本の辺境地域で起こる各種の事故、そして倭館にたくさんの人員が常時滞在するほど、日々、朝鮮と接触する中で起こる摩擦や懸案などを朝鮮側に伝達し解決するということが大部分を占めた。例えば、朝鮮の東南海岸に居住している人、主に全羅道と慶尚道の海岸の住民たちは彼らの生業(漁業)活動中に遠沿に出て突風や颱風などの影響によって漂流し、日本に漂着するという事故が遭った。
260年の間、およそ11,000人を越える住民たちが1,100余回にわたり、日本の北海道の日本海沿岸地域、九州の北西部、五島の西海岸地域、対馬,
琉球に漂着した。それだけでなく、日本の沿岸住民たちも漁撈活動や米を運送する過程で朝鮮の東南海岸に漂着する事例が、260年の間に約140件(約1,200人)あった。このような事故に遭った人々を'漂民'、または、'漂流民'と呼んだが、日朝間に決められた送還手続にしたがって対馬がこの者たちの送還を担当した。朝鮮人が日本に漂着する事故はある年は漂流がなく、ある年には10回を越えるといった場合もあり、起伏はあったが、1年に平均3~4件程度の事故があったと考えたならば、漂流民の送還のために対馬の使者の朝鮮往来が通信使や訳官使行の招聘のための往来の回数よりもはるかに多かったことが分かる。これは通交内容の側面からみると政府次元における外交的な事案よりも、一般民間人の接触を解決するための事案がはるかに多くの比重を占めていたことを意味している。それだけでなく、空間的側面からみても、単純に倭館がある東莱府の周辺だけでなく、朝鮮の東・西・南海岸、日本の日本海沿岸の住民、九州、五島などの地域住民との接触が辺境地域では偶発的ではあるが広範囲に成立していたと指摘することができる。
一方、朝鮮は倭館居留の対馬の人びとが朝鮮人と接触することをさけるために東莱府に遠く隔たった草梁という場所に住居施設を設けたにかかわらず、様々な形態の接触が絶えなかった。朝鮮は倭館に堀を張り巡らせ、最初から制限された空間の中でのみの隔離生活を求め、倭館内の対馬の居留民たちと東莱府の住民たちの接触や交流を絶対に封鎖しようとした。
これは壬辰倭乱以前の開港場で 朝鮮人と日本人の自由な接触のために起こった三浦倭乱(1510年)のような摩擦を再び引
き起こさせないためであった。
しかし、倭館に居留している対馬の人びとが倭館の門の外に出る機会が全くなかったわけではない。倭館の外で毎日開かれる‘朝市’をはじめとして、倭館に勤務し死亡した祖先たちの墓所を探し春秋(チュソク)の名節の時には墓参するために出かけたし、対馬の使者が来て草梁客舎に参上し朝鮮国王に対し粛拝するとき、また宴享大庁で宴が催されるとき、そして倭館の外にある東莱府の訳官宅を訪問する場合には対馬の人びとの倭館の外出は許容された。
この中で‘朝市’は倭館に居留する対馬の人びとが唯一朝鮮の商人たちと直接対面することのできた機会であったが、それは品物の売買以上の接触があった。例えば、倭館内の食生活は日本風であったので、倭館内の日常生活に必要な生活必需品は請負屋を通して倭館の中で自給自足することが出来るようにした。しかし、日々消費する米や野菜、魚は朝市で購入するしかなかった。朝市に立つ商人は東莱府の女性たちが多かったと推測され、毎日開かれるために、顔見知りになり単純な商品の取引を越えた性的な接触のための去来がここに成立するようになった。いわゆる‘交奸’と呼ばれるこの売買春は朝鮮の立場からみれば儒教的倫理意識にはずれたことであり、混血児の発生など、社会問題を引き起こすこともあった。男女が親しくなり、警戒心が薄くなると機密の漏洩など、情報管理にも問題が生じた。したがって、これが発覚した場合には日朝の当事者たちがすべて処罰を受けるようになっていた。朝鮮時代の全般を通して、十数件の交奸事件が記録されているが、交奸に対する朝鮮と日本の社会的通念の差異により、対馬が倭館に居留する対馬の男性の身柄を朝鮮に引き渡さなかったために、これを処罰することは簡単ではなかった。朝鮮は交奸を根絶するために通信使の派遣時に幕府にまで、問題を提起する考えをもっていた。対馬の要請で朝鮮と幕府の外交問題にまで拡大されはしなかったが、倭館と倭館周辺の東莱府住民との接触に対する欲求は自然なものと言うことができる。特にこのような形態の接触は朝鮮に凶年や飢饉が起こったときにはさらに頻繁に発生した。19世紀の記録をみると飢饉の発生時には朝鮮の女性と対馬の男性との売買春は増加する傾向があった。釜山浦周辺の住民は釜山浦やその付近の浦口に入る対馬の船舶から米や、必要な物品を求めるなど、各種の商取引が成立するようになった。
これ以外には倭館への出入が一切、統制されたが、倭館に居留する対馬の人々はこれを無視し倭館の外に出入した。いわゆる‘闌出’というこの無断外出行為は朝鮮が最も統制したかったものであったが、対馬の人々はある懸案に関する要求を貫徹させるために東莱府や釜山僉使営まで集団示威(デモンストレーション)をするためによく倭館門外へ出て行った。朝鮮が許容してもしなくとも、倭館の門外に出入する過程において当然、周辺の民家の朝鮮人との接触もあった。
つまり、朝鮮は朝鮮人と倭館に居留する対馬の人びととの接触を禁止したにもかかわらず、倭館をめぐっては様々な形態の接触が日常的に起きており、朝鮮はこれを防ぐことができなかったと言うことである。この過程には友好的な交流もあっただろうし、摩擦や葛藤もあったであろう。むしろ、このような日常的接触が日朝通交の大部分を占めていたと言っても過言ではない。
3.‘友好’の裏面
(1) 前例主義
対馬は日々起きる事件や摩擦をどのように解決したのだろうか。朝鮮は壬辰倭乱後、日本の武力、あるいは再侵入の可能性に対して一種の恐怖感を持っていた。このことを十分に理解していた対馬は17世紀の中半まで朝鮮の恐怖を利用して、懸案の妥結を試みた。前にも言及したが、懸案の妥結が難しい場合‘闌出’という大規模な集団示威で朝鮮を威嚇したり、朝鮮側の官吏を殴打するなど、暴力を行使することによって力で押し通した。対馬の人びとはこれが問題を迅速に解決する最も効果的な方法であると認識していた。実際に17世紀中半までは、闌出事例が頻繁し、これを防ぐことができない東莱府使が問題の責任を追及されることが多発した。
対馬藩の儒学者雨森芳洲は、17世紀末の朝鮮には壬辰倭乱以後、日本の武力に対する恐怖感(‘余威’)がほとんどなくなり、対馬の脅迫的な交渉態度が效力を失ったと指摘している。つまり、17世紀末は朝鮮に‘余威’がなくなり、対日関係にも朝鮮が主導権を発揮しはじめた時期であるとも見ることができるが、対馬の朝鮮に対する認識は以前と変化はなく、両者の認識には大きな乖離があった。雨森芳洲は朝鮮人を威嚇する従来までの外交術、つまり、‘力の外交’では今後の日朝関係において発生する懸案を解決することは難しいため、別の方法を考え、朝鮮人に対処することを対馬藩の藩主に提案した。これは、正に‘記録’の作成と言えるものであった。
1702(粛宗 28, 元禄 15)年に朝鮮に外交使節(参判使の都船主)として派遣され、朝鮮の対日本認識が変してきていることを直接目撃した雨森芳洲は、彼が藩主に提出した意見書『交隣提醒』において‘記録’の重要性を強調した。対馬藩主は雨森の忠告を受け入れ朝鮮に派遣するすべての使者は帰国後に朝鮮で見聞きしたこと、朝鮮で受けた接待にに対して、ひとつも洩らすことなく記録し、藩主に提出させるようにした。一種の出張復命書(派遣報告書)ということができるこの‘記録’については、現在、国史編纂委員会に所蔵されている『対馬島宗家文書』を見ると18世紀以後のものが種類、また数量においても、それ以前のものより顕著に多いことが確認できる。これは対馬藩自体の藩政機構の整備、あるいは拡充による結果であると指摘があるが、朝鮮の変化した状況に対し対馬が対応した結果とも考えることができるであろう。
つまり、17世紀中半以後、朝鮮から日本の武力に対する恐怖感が消え、この間、対馬が朝鮮との交渉に最も效果的であると信じてきた示威・威嚇式の‘力の外交’がこれ以上、効力をもたないとわかってくると対馬は‘前例’・‘論理’(ことば)の主張がずっと效果的であると認識するようになり、その結果、対朝鮮交渉の方法として‘記録’を基礎とした前例主義を重視せざる負えなくなったと見ることができるのである。
(2) 情報の統制
対馬は各種の外交懸案は勿論、日朝間で接触する過程で生じた摩擦に至るまであらゆる問題を実際に直接とり扱う立場にあったため、どのようにすることが朝鮮と日本の間に平和を維持することができるのか、またその中で藩の既得権をさらに拡大させることができるのかを対馬藩ほどよく認識していた集団もなかった。
したがって、摩擦や緊張要因が発生すれば、朝鮮側の訳官や東莱府使を説得したり、贈物を贈って、問題を縮小したり、歪曲させることによって両国間の外交問題に拡大させることを防いだ。外交問題に拡大した場合には、対馬は幕府から対朝鮮外交代行という既得権を得ることもできた。したがって、対馬藩は自藩に有利な情報だけを提供することによって東莱府使や朝鮮朝廷、及び日本の幕府は辺境で摩擦や緊張があったとしてもわからないことが多かった。また、反対に懸案が簡単に妥結しない場合には朝鮮側のミスを問題にし、意図的に幕府の戦争意思など緊張をつくりだすように対馬藩主導で交渉を導き問題解決を試みることもあった。
このように対馬藩は自身が有利になるように操作した情報を持って、緊張をつくりだし、また、外交の実務で問題を円滑に解決し、懐柔させる方法は対馬藩が260年という長い間、日朝間の間で外交を独占しながら獲得した外交技術であった。これはある問題が両国間の外交問題として正面衝突する前に衝撃を緩和する効果的な装置であったが、直接的衝突なしに平和を維持することが現実的に対馬藩の既得権の拡大、または実利とも直結していたということを誰よりも認識しており、対馬藩が追求したひとつの外交テクニックであったと考えることができる。
つまり、対馬島が駆使した情報の操作、あるいは外交技術は対馬藩の利益を拡大させるための方法であり、同時に前近代'善隣友好’の維持という観点から見れば、ある部分では寄与したとみることができる。
(3) 公私交渉ルートの活用
先に言及したように、日朝の間接通交の中で対馬藩を通してくるすべての懸案は東莱府使が接受し、慶尚監司を経て朝廷に転達された。東莱府使の啓文を添附し転達されるこの手続が‘啓聞’という公式的な転達体系であった。しかし、このような交渉経路は時間がかかるだけでなく、東莱府使の任期が満了し、新しい府使が赴任することになれば、再び最初から始めなければならなかった。対馬藩は公式的な手続を通して問題が解決されない場合には、私的な交渉経路も效果的に活
用した。
私的な交渉経路とは、‘東莱府訳官→朝廷内の高官’という経路のことである。前近代においては訳官(通訳官)は単純な通訳ではなく、ある程度、外交的な判断が許容されていた。したがって、対馬藩の立場で見れば、朝鮮側の訳官の交渉能力、対馬藩の役人たちとの親密の度合、また彼らが対馬藩に対して持っている好意如何によって交渉結果が異なることもあった。東莱府に一定期間派遣されていた訳官たちは中央の司訳院所属で、承政院と備辺司の胥吏層、中央高官の側近と接触することのできる機会が多かったので、中央における情報に明るかった。
18世紀の朝鮮はいわゆる‘党争’と呼ばれる政治上の権力争いが激しかった。対馬藩の記録を見ると中央の高官が、誰によるかによって結論が変わることがあったので、政治的に‘東人’と‘西人’のどちらの系譜に属する人物であるかということに非常に敏感であった。したがって、中央の動向の把握や情報の確保のためにもどの訳官に会うかということは重要な問題であった。特にこの問題は朝鮮側の
訳官の協力を絶対的に必要であった対馬藩としては懸案の妥結において重要な要素であった。したがて、対馬藩では中央の人脈に接触できる訳官、あるいは交渉能力が卓越している訳官を選好する傾向があり、18世紀中半には、実際にこのような私的な人脈を動員して問題を解決した事例も確認することができる。対馬藩に協調的な訳官に対しては褒賞も贈った。対馬藩に協調的な訳官を確保することは対馬藩の利益とも連結したので、今後期待される效果の為にも対馬藩は朝鮮の訳官を経済的に支援することも重要であると考えていた。1720年代以後朝鮮の訳官たちの密貿易事件、及び対朝鮮貿易の沈滞などで訳官たちの位置が失墜して経済的窮乏が深刻になると、対馬藩は朝鮮訳官層の経済的安定の為に対馬藩の支援が代価性としてであれ、保険性としてであれ、持続的に訳官層全体に幅広く行わなければならないこととして認識されるようになった。朝鮮の訳官に対する対馬藩の経済的援助は銅・銅製品・公木・公貿易物品などを賞として与えたり、または米などを貸し出すといったかたちで行われた。
朝鮮訳官の経済的困難と対馬藩の彼らに対する経済的援助は公的交渉経路の歪曲を誘発する契機となった。しかし、これは一方では15世紀中半以来、対馬藩を通した間接通交体制の中に朝鮮の訳官、及び中央高官たちがお互いに連結されていた私的経路など、多様な交渉経路が存在していたことを意味するだけでなく、対馬藩の立場から見るときには、私的交渉経路といえども、懸案を效率的に解決できる方法であると同時に、朝鮮との緊張を最小化し、さらに藩の利益を最大限に拡大することができるといった效果もあったのである。
終りに
以上、前近代の日朝間の交流の特徴と対馬藩の役割について見てきた。ここで指摘したかったことは、政府次元の‘通信使外交’以外にも倭館や辺境地域で交流と接触が日々、日常的に起こっていたことであり、通交主体と空間も国家や中央中心で民間や辺境に拡大してみる必要があるということである。しかし、朝鮮後期260年間の日朝間には通信使外交に象徴されるように全般的に善隣友好が維持されたとこは史実であるが、‘友好’の裏面には対馬藩が相互間の交流や接触過程に日々起こった葛藤と緊張を15世紀中半以降、間接通交の中で蓄積してきた様々な外交技術、つまり、前例主義・情報の濾過・公私経路の活用などを駆使して圓満に解決してきた結果であると言うことだ。現代日本においては対馬は日本の西方の辺境の果て、ないしは韓国に近い異国色の濃い離島程度に理解されているが、前近代に限って見たとき、対朝鮮通交の中心にあったと言っても過言ではない。しかし、日朝間の交流が、長い間、対馬藩によって独占されてきた結果、19世紀末における朝鮮の開港前後の時期、朝鮮政府と明治政府間の交渉では、対馬藩が相方に対して歪曲した情報を伝えるたことによって通交体制改編に対する交渉は膠着を繰り返すこととなった。つまり、明治政府の外務省が朝鮮と直接通交する体制に改編されていく過程において、対馬藩による朝鮮政府と明治政府を相手に行う交渉が、対朝鮮通交代行に対する自藩の既得権を最大限に報償されるようなかたちで行われたため、征韓論の拡散など、明治政府と朝鮮間の交渉にむしろ障害となったとみることができるのである。 |