7. 韓国音楽史のいろは

 

黄俊淵(ファン・ジュニョン)

韓国人は昔から常に音楽と共に生活してきた。今日韓国の地と呼ぶところに人類が住み始めたのは旧石器文化が始まった約70万年前とする見解が一般的であるが、実際には想像しがたい大変長い歳月の間この地に人間が生きてきただけでなく音楽もまたその歴史を共にした。


しかし、建築や美術など他のさまざまな芸術分野の歴史に比べると音楽の歴史については述べることが難しい。まず、音楽というものは目に見えない形態である無形的な芸術である。昨今各種の音楽のための記録媒体が発達する前には音楽は演奏する瞬間が過ぎてしまえば消えてしまうものであった。また、比較的ひとつの職業的
として技術が鍛練された者の作品を建築、あるいは美術のカテゴリーの中に入れるとするならば、音楽というカテゴリーには職業的な音楽家以外にも一般的な人々が歌った民謡のような歌まで含められ、その需要範囲がかなり広いといえる。

 このような理由により音楽はなかり以前から韓国人と共に存在してきたことは推測はできるが、正確にいつから韓国で音楽が演奏されたのか、あるいはその時の音楽がいかなるものであったのかを知ることは大変難しい。したがって、本稿でいう音楽史とはさまざまな記録や墓の壁画により少しでも具体的に音楽というものがわかる時期から始めざるを得ない。


一方、その間韓国音楽史に関してはよく歴代王朝史に沿って「統一新羅時代の音楽」、「高麗時代の音楽」のように時代を区分することが多い。しかし、本稿では音楽史に関する話を展開するため音楽時代そのものの歴史に焦点を
て時代を区分することに努めた。各時代別に名前が多少見慣れないものであっても時の主流をなした音楽様式で表すことにした。


ッ音楽の時代(上古時代)


この時代の韓国音楽に関する記録は中国の文献に見ることができる。その中で馬韓に関する記録は『後漢書』にある。馬韓では通常5月に種をまき豊年を祈願し祭祀を行うために多くの人々が集まり、歌と踊りによる宴を昼夜を問わず、そして休む暇もなく楽しんだといわれている。その際数十人が一緒に踊り、彼らの手足の動作同じであった。また、5月だけでなく10月にもこのような行事が行われたとされている。


一方、陣寿が記した『三国志』には夫餘、高句麗、?では天を仰いで祭祀を行い、歌と踊りを催したいう記録を見ることができる。その中で夫餘に関することを例にあげると、夫餘では正月になると天を仰いで祭祀を行い、その際多くの人々が集まり、数日間飲んで食べて歌って踊ったのであるが、これをマジクッ(迎鼓)といった。このように夫餘のマジクッと共に高句麗の東盟、?の舞天は人々が集まる祭天儀式であり、そしてこれらは必ず歌と踊りをともなった
ものであった

馬韓につづき、夫餘、高句麗、?などの祭天儀式で演奏された音楽は今日ののマウルクッ(都堂クッ:マウルは村の意)の音楽に類似した性格を持っていた。江陵の端午祭や南海岸の別神クッなどは最近でも韓国で開かれる代表的なマウルクッであるが、村人たちがみな集まり村のさまざまなことがうまくいくように祈願しいっしょに歌や踊りを楽しむという点で、古代の祭天儀式の伝統が受け継がれているといえる
伽?琴・コムンゴの時代(三国時代)


韓国音楽を代表する楽器といえるカヤッコ(伽?琴)とコムンゴ(玄琴)は今からほぼ1500年前に演奏されていた。しかし、それよりもずっと以前から韓国に伽?琴やコムンゴのように水平に置いて演奏する絃楽器があったとするのが現在の一般的な見解である。元来、韓国にカヤッコ、コムンゴよりももっと以前に「ゴ」という弦楽器があり、「カヤッコ」、「コムンゴ」という名前も「ゴ」に由来するものであるということである。


伽?琴は伽?の嘉實王が唐の楽器を見て作り、于勒がその音楽にさらに磨きをかけた。のちに伽?が亡ぶと于勒が新羅の眞興王に投身し、これを契機に新羅に伽?琴とその音楽が伝えられるようになった。眞興王は法智、階古、萬徳を于勒に使わし、その音楽を習わせ、彼らはそれを基盤に新しい楽曲を作り演奏した。その音楽に関して于勒は「楽しいながらも節制を忘れることなく、悲しいながらも喪心させることがないため正しいというに値する」(?而不?, 哀而不悲, 可謂正也)と感歎したという。このように新羅に伝わり新羅の人々により演奏された伽?琴は、のちに海を渡り日本でも新羅琴という名で伝えられた。4世紀の昔の墓から出土した土偶と日本の正倉院に伝わる伽?琴から時のものを確認することができるが、その形態は今日の伽?琴とほぼ同じである。

 

伽?琴と共に長い歴史を持つ絃楽器であるコムンゴは遅くとも5世紀に生まれた楽器として知られている。『三国史記』によると晋のとある者が七絃琴を高句麗に送りそれが楽器であることはわかったものの演奏する方法を知らなかったという。そこで王山岳がそれを改良し百曲余りの曲を作り演奏したところ、黒い鶴が飛んできて踊りを踊ったことから「コムンゴ」(コムンは黒いの意)と名付けたいわれている。のちに玉宝高と克宗などにより新羅にまでコムンゴとその音楽が普及された。そして百済を介して日本にまで伝わった。


高句麗の文化に関しては古墳壁画を通して多くを知ることができる。音楽に関しては同じように安岳3号古墳、台城里1号古墳、通溝12号古墳、長川1号古墳、舞踊塚、江西大墓、通溝4号古墳、通溝5号古墳などが高句麗音楽に関する壁画を受け継いでいる古墳である。この中でも5世紀頃に作られた長川1号古墳と舞踏塚にコムンゴの初期形態が描かれており、それ以降古墳である江西大墓、通溝4、5号古墳の壁画にも
またコムンゴが描かれている。このような壁画を見るとコムンゴが神仙や仙人が演奏するものとされ時、楽器が神聖視されたいたことがうかがえる。


一方、古代の高句麗、百済、新羅三国は中国と多くの音楽的な交流を行った。『三国史記』楽誌で述べられている高句麗、百済の楽器の中には中国のものもあり、すでに
時中国の音楽文化が韓国に入ってきていたことがわかる。百済の味摩之という人が今日の仮面劇のような形態である伎楽を中国の呉で習い日本に伝え、伎楽の仮面と音楽について記録を残した昔の楽譜が日本に伝えられている。このように仏教的な内容を含んだ伎楽の形式と内容は韓国の各地方の仮面劇タルチュ厶(別山台、五廣大、野遊)とも相通ずる点があり、古代の音楽的交流の痕跡が見られる。


三絃三竹 ・ ク歌の時代(統一新羅・渤海)


統一新羅時代には以前の高句麗、百済、新羅の三国時代から伝えられてきた韓国固有の音楽である郷楽がさらに発展した。特にこの時代の郷楽は「三絃三竹」という用語で表現することができる。この中で三絃は伽?琴・コムンゴ・郷琵琶などの三つの絃楽器をさし、三竹は大・中・小などの三つの管楽器をさす。このような三絃三竹を基本とする拍板・太鼓などの打楽器に歌・踊りを加味し演奏する音楽形態が時の郷楽としてたいへん愛されていた。

そして、時民間では「郷歌」というジャンルの歌も流行した。讚耆婆カ歌や彗星歌などの「郷歌」がどのような音楽であったのかはわからない。ただ、さまざまな歌詞をひとつの旋律に合わせて歌う形態であったと推測されている。郷歌は高麗時代、朝鮮時代を経て鄭瓜亭、大葉のような声楽曲へとつながり朝鮮時代以降今日まで広く歌われている時調というジャンルの音楽にも受け継がれたとされている。すなわち、統一新羅時代の郷歌は韓国の伝統的な声楽曲の暁とされている点で重要な意味をなしている。


参考までに統一新羅時代の音楽のうち仏教音楽である梵唄と唐樂に関して簡単に言及しておく。梵唄は統一以前の三国時代の新羅を起源とするものとされている。このような新羅の梵唄が統一新羅時代にいたるまでにはまた二つに別れるのであるが、ひとつは以前の新羅時代のものとは大して違わない新羅風の梵唄であり、もうひとつは当時の中国仏教音楽に類似した中国風のものであった。また、唐楽は統一新羅時代当時中国から新たに流入した音楽であるが、今日まで残された記録と遺物によると方響、
箏・唐笛・笙簧・琴・腰鼓などの楽器で演奏されたと見られる。しかし、今日にいたってはこのような楽器により演奏された統一新羅時代の唐楽がどのようなものであったのかを知るすべはない。


唐楽時代(高麗前期)


高麗の前期には特に中国の宋を通じて唐楽が本格的に入ってきた。宋を通じて入ってきたとはいわれるが、主に唐代の音楽が入ってきたので高麗では「唐楽」という名称で演奏された。高麗に伝わった唐楽の中で代表的なジャンルは詞楽であるが、本来唐に端を発する詞楽は宋により高麗に伝えられ、高麗では歌と踊り、音楽演奏という形で唐楽呈才として演奏され、これは朝鮮時代までずっと受け継がれた。

詞楽は本来音楽の長さと拍子により、その形式が慢・近・令に区分された。慢はだいたい8拍子を基本とする音楽であり、歌詞に使われる漢字も数が100字あまりにのぼる。令は4拍子を基本とする音楽で50字ほどの漢字が歌の歌詞として歌われた。このような慢と令の中間である近は6拍子を基本とする音楽であり、歌詞に用いられる漢字の数もまた慢と令の中間ぐらいに該する。そして、詞楽の各曲は前段(尾前詞)と後段(尾後詞)の二つの部分からなるが、前段の二番目のクィ(句)以下の旋律が後段の二番目のクィ以下で反復される。

もちろん高麗時代に宋を通じて入ってきた唐楽、すなわち唐の詞楽かなりたくさんの曲があったものと思われるが、朝鮮時代を経て今日まで伝えれれているのは「歩虚子」、「洛陽春」の2曲ぐらいである。しかし、この2曲もやはり朝鮮時代の世祖の時代にはすでに韓国化され朝鮮後期にいたっては歌も歌われず器楽曲としてのみ演奏されるようになった。また、音楽のテンポも変化するなどあらゆる変化を遂げ、最近ではその演奏を実際に鑑賞してみても中国音楽というよりも韓国音楽という感じがより強い音楽になってしまった。

唐楽につづき高麗の睿宗(1116年)時代には中国の宋から大晟雅樂という雅楽が輸入された。これは歴史的にも大変意味のある事件といえる。大部分四言一句からなる漢文の辭?に一字一音ずつきっちりと旋律をあてる形式をとった雅楽は高麗時代に宮中の朝賀儀式の音楽、宋廟、?丘などのいろいろな場所での祭祀音楽などに採択された。このような雅楽は朝鮮時代に再び手が加えられ、孔子の祠堂である成均館に祭りを催す文廟祭礼の音楽として演奏されるようになり、今日まで祭礼とともに音楽も伝えられている。韓国の文廟祭礼で演奏される雅楽は今日中国でも見ることのできない雅楽本来の姿がそのまま生きている。


別曲葉の時代(高麗後期)


高麗後期には高麗前期に中国から入ってきた唐楽と雅楽にさることながら、高句麗、百済、新羅から伝えられた韓国固有の音楽である郷楽もまた重要な部分を占めた。その中でも伴奏をともなった声楽曲が特に流行し、その代表的な様式が別曲である。「青山別曲」「西京別曲」「翰林別曲」といった歌が別曲といえるが、これらの音楽には大変長い歌詞があり、この歌詞が一定の後斂句を持ついくつもの節に別れており、第2節以下は第1節の旋律を続けて反復して歌う有節形式である。また、これの別曲のほとんどは文人により好んで歌われたものとされている。

一方、別曲のように伴奏がある声楽曲であながら、やはり高麗後期に流行した様式で?葉?というものがある。「滿殿春」「眞勺」「思母曲」のような曲がまさに「葉」の形態をとっており、これらの音楽はすべての辞節に反復しない旋律がつけられ、本曲以外に「葉」という部分が追加されたのが特徴である。
高麗後期に流行したこのような郷楽は朝鮮時代にも受け継がれ『時用郷楽譜』という楽譜にもその音楽が記されている。しかし、実際に『時用郷楽譜』に収録された高麗の音楽は果たして高麗時代に演奏されたものをそのまま記録したのか、それともすでに長い歳月を経て朝鮮時代に時の人々が楽しんだ音楽が記録されているのかどちらなのかという疑問が生まれてくる。


別曲と葉などの様式化された音楽としての郷楽の発展は以前高麗に伝えられた雅楽、唐楽とともに高麗後期の我々の音楽を郷楽、雅楽、唐楽の3つに分けた。雅楽と唐楽は各々7音音階と6音音階であるのに対し、郷楽は主に5音音階の平調と界面調からなるという特徴を持つ。


ク楽・鼓吹楽の時代(朝鮮初期)


朝鮮時代初期には音楽の研究が徹底的に行われることにより、雅楽が整備され郷楽と鼓吹楽が作られた。「致和平」、「醉豊亨」、「定大業」、「保太平」などに代表される朝鮮初期の郷楽は高麗時代の別曲などに多くの影響を受け作られた音楽である。しかし、歌詞をハングルよりも漢詩で書くことが多く、その音楽も屈曲が多くない一字一音の形式をとった。したがって、その音楽が高麗時代よりもずっと 優雅な感じのするものに変化した。


鼓吹楽は郷楽
その音楽的な特徴が少し違うが、朝鮮初期に創製された鼓吹楽の中で代表的な曲として「興民楽」があげられる。世宗27年に記された「?飛御天歌」の漢詩1、2、3、4章と最終章に曲をつけた音楽である「興民曲」は世宗実録楽譜を見れば歌詞1字にあてる音の長さがずべて同じで、4言1句からなる各句の終りごとに拍を1回ずつ打つ形態になっている。音階もまた5音音階からなる郷楽とは違い6音音階からなり、このような点がすべて鼓吸楽の特徴である。


以上のように朝鮮初期の音楽を代表する郷楽と鼓吹楽の共通点はみな朝鮮時代の朝宗の功徳を誉め称えるために作られた曲であるという点である。郷楽は高麗時代から伝えられた平調や界面調の郷楽調を、そして鼓吹楽は高麗時代から伝えられた唐楽調を新しく作り直したものである。朝鮮初期の郷楽と鼓吹楽の楽曲はそれ以後も朝鮮王朝の宮廷の各種の儀礼において引き続き演奏された。特に保太平と定大業は世祖の時代に宗廟の祭享楽に採択され、今日まで実際に宗廟祭礼の際にはその音楽が演奏されている。


朝鮮初期に大挙郷楽と鼓吹楽が作られたのは、朝鮮王朝の間、と楽を重んじる伝統と深い関連がある。朝鮮初期から国の規範を定めるため絶え間なく続けられており、そのために各種宮中儀の順序とそれに沿った音楽を整備しようと努力したのである。これは以後朝鮮王朝の儀の規範書である『国朝五儀』11)と音楽の規範書である『楽学規範』12)の刊行までにつながり、朝鮮王朝の宮中音楽を華やかにする契機になったといえる。


大葉の時代(朝鮮中期)


朝鮮時代中期にはソンビと呼ばれる知識人社会を中心に宮廷の外、つまり民間においてそれまでになかった短歌型の歌である大葉を暁に慢大葉・中大葉・?大葉などの歌が流行するようになった。この曲は元来、高麗時代の歌であった眞勺という音楽の伝統の一部受け継いだもので、時調詩を歌詞に用いる5章形式で、様式の面でもかなり発達した歌でもあり音楽でもあった。このように発達した音楽様式のおかげで大葉類の楽曲は朝鮮時代中期を通じて200年あまりの間途切れることなく伝承された。初めは慢大葉が歌われ、その次に中大葉と数大葉の順で歌われた。また、中大葉と数大葉は各々平調、平調界面調、羽調界面調などいろいろな調で歌われ、また各々の調からも第2曲、第3曲が派生するなど大変多様化した。


大葉曲と共にそれほど長くない短歌北殿も朝鮮中期にかなり愛好された。短歌北殿は高麗時代にもあった北殿という歌の一部が独立した形式のもので大葉曲に比べると
歌詞をぎっしりと詰め込むようにくっつけて歌い上げ、同一の長さからなる3章の形式をとる単純な形態で大葉よりもずっとたやすく歌える音楽である。すなわち、大葉が専門家の音楽で「歌曲」というジャンルにつながっていったならば、短歌北殿は誰もが歌える非専門家の音楽として「時調」というジャンルへとつながっていった。一方、この時代特にソンビ社会では新しい音楽である歌曲と器楽風流が登場し、のちの朝鮮後期にさらに発展を遂げる。


風流・歌曲の時代(朝鮮後期)


この時期、朝鮮ではソンビ階層で成立した霊山会上・歩虜子といった風流、そして大葉に始まった歌曲が大きく発達した。朝鮮中期から成立した風流は主にソンビたちがサランバン(舎廊房:主人の居間を兼ねた客間)でたしなんだ音楽でであったため、宮中音楽などと比較するときとても簡素な編成で演奏されることが多かった。ソンビが修身する方法のひとつとしてコムンゴの演奏をあげるほど、風流はソンビたちに愛された楽器であったコムンゴを中心に主に発展した。その結果、コムンゴの音楽についての記録が残っている昔の楽譜がこの時期にたくさん出るようになり、現在まで韓国音楽の研究における貴重な資料として活用されている。 

ソンビたちの風流として採択された楽曲の中で代表的なものとして霊山会上があげられる。朝鮮初期に歌われていた単純な形態の霊山会上は朝鮮後期に規模の大きい器楽合奏組曲に発展した。本来の霊山会上(上霊山)に始まった中霊山、細霊山、加楽ドリのような曲と共に民間で聞くことができた念仏、打令(タリョン)、軍楽といった新しい曲が加わり組曲をなした。霊山会上と共にソンビ社会で持続的に愛されていた風流曲である歩虜子、ドドゥリ系統のさまざまな楽曲出てくるようになり、その中でもドドゥリ、両清(ヤンチョン)ドドゥリ、羽調加楽ドドゥリなどの音楽は界面加楽ドドゥリと共に「千年歳」という題名の組曲で霊山会上に続いて演奏されたりもした。

風流曲と共に発達した歌曲は元来朝鮮中期に数大葉と呼ばれた音楽が引き続き発展し、19世紀中葉に完成したひとつの巨大な組歌曲である。その中で前の部分は初数大葉、二数大葉、三数大葉などもう少し以前の数大葉に近い形態の曲からなり、後ろの部分は弄、楽、編のように速度が速くなったり、歌詞をつける方式が変わるなど音楽形態が新しくなった曲からなっている。
歌曲は風流と同様にソンビのような知識人たちがたしなんだ音楽であったため、その歌詞を記録した歌集も作られ現在まで伝えられている。金天澤の『丘永言』、?壽長の『海東歌謠』、朴孝ェと安?英の『歌曲源流』がそれにあたる。
一方、朝鮮後期にはパンソリというもっとも劇的な歌い手である唱優がパンノル厶(大道芸の一種)で歌った歌が叙事的な辞節で長く歌われ形成された。


パンソリ・竝唱 ・散調の時代(開化期)


すでに朝鮮後期に成立し、しだいに発展したパンソリは開化期にも依然として多くの者に愛された。元来12のマダン(、広場の意)まで歌われたパンソリは19世紀後半には8つのマダンに減り、開化期にはその内容に忠実な教訓的な興夫歌(友愛)、春香歌)(愛)、沈清歌(孝行)、赤壁歌(信義)、水宮歌(忠誠)の5つのマダンのみが歌われるようになった。19世紀のパンソリ名唱として權三得、?季達、牟興甲、朴裕田などが鄭?Gの『朝鮮唱劇史』に紹介されている。
このようなパンソリの発展の波に乗り、19世紀末の開化期には竝唱と散調が登場した。楽器を自ら演奏しながら歌う竝唱は主にパンソリの中でもおもしろい場面やひとつの区切り、そして短歌を歌い、開化期以後大衆に多くの人気を得た。独奏形態の器楽曲である散調も竝唱と共に人気を博したが、散調の起源は同じような様式からなるプンガックジェンイ(風角野郎)という旅芸人の音とポンジャンチュィにあるとするのが一般的な見解である。また、散調はパンソリの拍子を採択し、頻繁な転調による旋律構成をなしており、ポンジャンチュィやシナウィ(巫俗音楽に由来する器楽)よりも次元の高い芸術音楽に発達することができた。散調を初めて演奏したとして知られている金昌祖であり、そのあとに韓成基、崔玉山、安基玉、姜太弘、?竹坡などの名人が登場した。
 
この時期パンソリ、竝唱、そして散調は開化期以降しだいに押し寄せつつあった西洋音楽の荒波にもまれることなく、20世紀以降は音盤に録音し流布されることにより韓国音楽の地位をしっかりと守り続けてきた


創作音楽の時代(大韓民国)


20世紀後には西洋音楽が幅広く受容されるようになり、学校での音楽教育が西洋音楽を中心に行われている。それにともない西洋音楽が一般的に広く好まれ伝統音楽はしだいに衰退し忘れられた。
しかし、音楽文化の多くの部分が西洋式に変わったにもかかわらず、多くの作曲家による韓国的な情緒と理想を表現する作品が作られた。?h洙などの作曲家により新しい作品が実験的に作曲され、国楽器だけで演奏されもした。また、国立国楽院と各大学の国楽科では新しいレパートリーを開発するために多くの作曲者たちに創作音楽を依頼するようになり、このことがさらに拍車をかけさまざまな形態の音楽が作られた。現在、作曲家たちと国楽管弦楽団、大学の国楽科の役割が互いにバランスのとれた調和をなし、いろいろな試みによる新しい創作音楽が量産されるまでにいたった。

代表的な創作音楽の作曲家として?成千、?炳基などがあげられる。?成千は1962年から作品活動を行い、繊細で技巧的な色彩を持つ伽?琴独奏曲である「ノリト(遊び場)」(1967)などが代表作品である。?炳基は主に伽?琴独奏曲の多く作曲し、伝統を重んじながらも現代的な感覚を多分に生かした詩的で絵画的な要素が作品に溶け込んでいる。代表的な作品には伽?琴独奏曲「スップ(森)」(1963)、「沈香舞」(1974)などがあげられる。